東京都新宿区の校正・校閲会社、円水社(えんすいしゃ)のブログ

  • 2024年03月27日(水)
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「痴人説夢」(ちじんせつむ)

 春の夢は痕跡をとどめずに消え去る「春夢無痕」ですし、好い夢も現実にはなら

ない「好夢難成のようです。が、痴人が説く夢である「痴人説夢」(『封神演

義「五三回」』など)」は、時代の潮流となって一世を風靡するもののようです。

 唐代の故事ですが、「何」出身の僧伽は修行で周遊のとき、お名前は何?と聞かれて「姓

何」と答え、お国は何国?と聞かれて「何国」と答えて痴人とされました。去世したあと碑

文に「大師姓何、何国人」と刻まれたのを見て、後人は「痴人説夢」の典型としたのでした。

「痴人の前に夢を説く」(朱熹)というのは、愚昧な者に夢の話をする益のないたとえに。

現代も実情に合わない荒唐な話として強調する場面で用いられています。本邦のタイトル

「バカ本」の流行は、著者か版元かあるいは読者が「痴人説夢」指向なのでしょう。新世

紀20年余つづいた世代交代、若者化・“愛痴”化(バカ化)によって展開された時代変

革は、政治と経済の国際的な埋没とともに「痴人説夢」の事例を併発させているのです


 
  • 2024年03月20日(水)
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「麦秀黍離」(ばくしゅうしょり)

 戦乱がなく気候が穏やかな黄河平原の大地に、麦(コムギ)の秀(穂)が結実

の期を迎え、黍(キビ)が実って広がる麦秀黍離」(『史記「宋微子列伝」』など)

のとき。豊作の兆候は古来、「春節」で集う一族のくらしの安定につながり、豊かな「麦

秋」に農民は安堵してきたのです。ところが、殷末に暴君紂王を諫めた箕子は、かつて

の都城跡地の変貌の姿を目にして「国破家亡」の沈痛哀傷を味わったのです。

 倭の奴国王や卑弥呼の遣いが訪れた王都洛陽は、滅亡ののち「漢魏故城」となり、北魏

時代に楊衒之は「麦秀の感、ひとり殷墟のみにあらず。黍離の悲しみ、周室のこと信なる

かな」(『洛陽伽藍記』から)と憂愁を深くしています。明治以降先んじて近代化する日

本に留学した人びとは、祖国の事情に麦秀黍離」の悲哀を免れえなかったといいます。

しかし現代の「春節」にマイカーで帰郷する14億人の食を支える農業は基幹産業であり、

食料自給率を確保する本来の意味での「麦秀黍離」は、国家政策の要なのです。

  

  
  • 2024年03月13日(水)
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「目撃道存」(もくげきどうそん)

 釈尊が天竺の霊鷲山での説法で蓮の花をひねって「拈華微笑」(ねんげみしょう)した

とき、大勢の弟子たちの中で摩訶迦葉だけがその意味合いを微笑して理解したという逸話

から、禅宗の「不立文字」の奥義が生じましたが、ことばを介することなく凝視する目撃

によって「道」を受容する「目撃道存」(『荘子「田子方」』から)が道教の荘子の立場

となっています。晋代の「竹林七賢」のひとり阮籍は自著を残していますが、その言説よ

りも長嘯によって本意を伝えたといわれています。阮籍は気にそわない人物には「白眼」

で対したことで知られます。


 ことばなく情意深く見つめることに「脈脈無言」があります。春の杏の花の季節を待ち

わびる想いにも用いられます。漢の司馬相如は意にかなわないため三年にわたって「黙黙

無言」でありつづけました。主君が民の願いを黙視するなら民もまたその支配に従うこと

できないのが「黙黙無聞」であり、唐の韓愈はそれを「蔑蔑無聞」といっています。

  • 2024年03月06日(水)
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「声聞過情」(せいぶんかじょう)

 名誉声望が実際の状況を超えていることを「声聞過情(『孟子「離婁・下」』から)

といいます。孟子は、実績を伴わない名声は水源のない水流のようなもので「君子はこ

れを恥」としています。常に当人に自省の意識があってこそ評価が成り立つというので

す。「声聞」にかかわる成語でよく知られているのは、後漢の歴史家班固が王位を簒奪

した王莽を評した悪、聞くに忍びず「悪不忍聞」。積み上げて得た「声聞」を痕跡なく

破壊し収拾つかなくするのが「声名狼藉」で、評判を聞いて驚き胆を喪う「聞風喪胆」、

民衆は怒りや哀しみを声に出せずに抑えねばならない「忍気呑声」に。


 前世紀に国際的に先人が築きあげた名誉声望どちらも評価される「令聞令望」の日本

は、GDPで中国、ドイツに抜かれインドに迫られ、一人あたりGDPでは30位以下に

埋没して「声聞過情」の状況に陥っています。この「前代未聞」の状況を招いた君子

(政治家)はこれを「恥」として衆議院を解散し国民に信を問うしかないでしょう。

  • 2024年02月28日(水)
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「看花涙下」(かんかるいか)

 唐の詩人李商隠(字義山、812〜858)が生きた時代は「晩唐」といわれます。300年と

いう長い平和がつづいた唐王朝が後退期にあることのさまざまな兆候を示して、もはや復

活再生することなく衰亡していったのでした。春を迎えて華やかに咲き誇る花を看ても悲

痛の涙が落ちるのが止まらないという「看花涙下」(『李商隠「義山雑纂」』から)の現

実。人為が自然の風景を壊す営みを詩人商隠は「殺風景」(「雑纂」から)と呼んで、捕

った獲物を川畔に並べる獺祭魚(カワウソ)のように並べて感懐を示すのです。


「看花涙下」「苔上鋪席」「花下曝褌」「果園種菜」「背山起楼」「焚琴煮鶴」屠家

念経」「尼姑懐孕」「親情犯罪」「貧家嫁娶」「流汗行礼」「大暑赴会」「県官似虎」「市

井穢語」「乞児夜号」「舟中雨漏」「未語先笑」などを列挙しています。晩唐を感知する詩

は馬車を駆って長安の楽遊原に登り夕陽に向かって「これ黄昏に近し」(「登楽遊原」)

と詠いましたが、令和の庶民は何をよしとしたら癒しを得られるのでしょう。

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堀内正範氏

日本丈風の会 代表
Web月刊「丈風」編集人

当社が永く校正で携わった、『知恵蔵』(朝日新聞社)の元編集長、朝日新聞社社友。
現在は「日本長寿社会」を推進する「日本丈風の会」を主宰し、アクティブ・シニアを応援している。 中国研究を基にした四字熟語への造詣も深く、時事を切り口に、新聞や書籍において解説を行なっている。
日本丈風の会ホームページにて、「現代シニア用語事典」も掲載。

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