- 2020年01月15日(水)
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「呑呑吐吐」(どんどんとと)
呑んで呑んで吐いて吐いてというと、お酒呑みが酒を呑んでしゃべりまくる姿が思われますが、「呑呑吐吐」(文康『児女英雄伝「五回」』、魯迅『吶喊「端午節」』など)はそう痛快な情景ではなくて、相手の言おうとするところを顧慮してよく吞み込んで、こちらからは滔々としゃべらず含みを持たせた言い方をする。全容を明かさずに本意を隠すようにするというニュアンスがあります。毛沢東は「共産党員に呑呑吐吐はいらない。開門見山(前出)でいい」といっています。そんなおおげさな用例はいらないようです。女の子が深夜まで遊んで帰って父親から問われたときにどうじょうずに答えるか。
人はいろいろなものを呑むようです。鳳凰を呑む「呑鳳之才」(李商隠)は豊かな文才にいわれ、これは「吐鳳の才」ともいいます。牛を呑む「呑牛之気」(杜甫)は旺盛な気勢をいいます。そして舟を呑む魚「呑舟之魚」(荘子)も現れ、「呑舟の魚は枝流に遊ばず」(列子)は志節の高い大人物は世俗にそまらないということになります。