- 2013年08月28日(水)
- 鉱物
「一言九鼎」(いちごんきゅうてい)
「一言九鼎」(範浚『香渓集・一八』など)というのは、将相たるものの一言は国家を象徴する宝器である「九鼎」の重みにも値するという意味です。それだけの影響力を持つことばを常に心底にとどめて発言しなければならないのです。
「一言九鼎」(範浚『香渓集・一八』など)というのは、将相たるものの一言は国家を象徴する宝器である「九鼎」の重みにも値するという意味です。それだけの影響力を持つことばを常に心底にとどめて発言しなければならないのです。
南朝梁(都は建康いまの南京)の陶弘景の場合は、みずから華陽隠居と号して山中の館に篭もり、皇帝(粱の武帝)から礼をつくして招聘を受けても茅山の館からは出ませんでした。30歳代に致仕して以後、門弟たちに囲まれて医薬、道学などを講じ、琴棋書画を愉しみ、80歳余まで「山中宰相」でありつづけました。
「戦後日本」の形成に参画し、成果を後人にゆだねて退き、歴史・文化・伝統などに精通しながら「山中宰相」と呼びうるような暮らしをしている優れた先人から学ばずに、現代の政界人自身に何ができるというのでしょうか。
日本の場合は、明治維新のあと西洋から帰った啓蒙家が女子教育の指針としました。「富国強兵」で働く男子を支えて内助に努めて「良妻」となり、子女を薫育して「賢母」となる。初代の文部大臣森有礼は「良妻賢母教育こそ国是」といっています。
中国の場合は、日本に留学した康有為や梁啓超が「賢母良妻」教育として移入したのですが定着しませんでした。男女がともに働き、ともに子育てをし、平等の社会的役割を果たした革命中国では、自立意識を持つ「賢妻」であり優しい「良母」となることが志向されました。両国とも「賢良な妻と母」を必要としたことは確かです。
その後「雨過天青」は、厳しい状況が大きく好転することの例えとされ、暗澹とした気分を吹きはらったあとの爽快な心情を伝えることばとなっています。「デフレーション(萎縮)」状態を脱して好況を呼びさまそうという「アベノミクス」がすべての国民にとってそうなるかは、国民の共感次第です。「雨過天晴」ともいいます。
柴栄は商家の出で、茶を商ったこともあったといいます。みずからの柴窯での磁器焼造にあたって、苦しい境涯の好転を願う思いをこめて、明朗な「雨過天青」(謝肇淛『文海披沙記』から)の釉色の器を求めたのでした。その願いは次の宋代に引きつがれ、官窯が焼造した「宋の青磁」は時代を画する逸品となりました。