- 2014年03月26日(水)
- しごと・社会
「黒白混淆」(こくびゃくこんこう)
ことは後漢時代の楊震にはじまります。楊震は、30年間教育にたずさわって門下生3000人、「関西孔子」と称えられました。その後の出仕は20年余り。東莱太守のとき通りかかった昌邑で、県令の王密から深夜ひそかに金10斤を贈られます。楊震は「天知る、神知る、我知る、子(あなた)知る、なんぞ知るなしといわんや」と断りました。それが知られて「四知先生」と呼ばれることになります。はては高官たちの目にあまる豪邸、園林づくりに、「是非をわきまえず、黒白混淆」(『後漢書「楊震伝」』から)と強く諫めて地位を追われ、毒をあおって憤死したといいます。
「改革の全面深化」を掲げる全人代活動報告は、深化する腐敗打破のむずかしさをにじませています。強化しすぎれば「口是心非」という心理的腐敗を引き起こすからです。