東京都新宿区の校正・校閲会社、円水社(えんすいしゃ)のブログ

「救死扶傷」(きゅうしふしょう)

 戦場や地震、大事故の現場で、瀕死の傷を負った人びとの救護に当たることを「救死扶傷」(司馬遷「報仁少卿書」など)といいます。よく知られているのは、革命時に戦場で生死をともにした医師「白求恩(ベチュ−ン)」を追悼する毛主席の「救死扶傷、実行革命的人道主義」でしょう。白求恩は中国の「十大国際友人」のトップに選ばれています。
 日ごろから天職としてその任に当たっている医療従事者の無私奉献の精神にもいわれます。生涯を僻地で患者の病痛の解除、介助に向きあう医師・看護師を支えている職業本能といえます。「国際看護師の日」が設けられてから100年(1912年。5月12日はナイチンゲールの誕生日)。どれほどの人びとが、その献身的な活動に支えられ救われてきたでしょうか。患者の個人的な献体、献血もそこに通じます。
 また「救困扶危」(『三国演義「第一回」』から)は、国家に報じ民を安んずることで、劉備、関羽、張飛の三人が兄弟とし、同心として立ち上がったときのスローガンです。
 

  • 2016年11月23日(水)
  • 鉱物

「象箸玉杯」(ぞうちょぎょくはい)

 象牙の箸と玉製の杯が並べば、およそどんな食事がはじまるかの想像がつきます。箕子は紂王が象牙の箸をつくったときに天下の禍を怖れたといいます。この「象箸玉杯」(『韓非子「喩老」』から)という成語の主は「酒池肉林」や「長夜之飲」と同じ紂王です。ご存知のように紂王は人がなしうる限りの悪逆をつくした王として知られ、諫めた箕子は狂をよそおって命を永らえたといいます。「玉杯象箸」といわないのは、象箸を使えば犀玉の杯を求めて「象箸玉杯」となるからで、そうなれば料理も牛象豹の肉となり、錦衣を着、高台にのぼり・・。

 箕子が象箸を見て怖れたのは、のちの天下の禍を見たからで、それから5年で「酒池肉林」の末に亡国を迎えています。始めの小事を見て終わりの大局を知る箕子のこのことばに、韓非子は老子の「小を見るを明」(『老子「五二章」』から)を引いています。

もちろん奢侈によって滅びたのは、ひとり紂王ばかりではありません。

「伯楽相馬」(はくらくそうま)

 次の時代に輝く人材は、だれか慧眼の人によって見い出されてきました。前項の賈島や「二十にして心已に朽ちたり」と詠った鬼才李賀や「走馬看花」(2013320)・「三春之暉」(20142・12)の孟郊などを見出した韓愈は、「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」(『雑説「第四」』から)といっています。「相」はよく監察すること。馬の良否を見分けた伯楽(孫陽)は春秋時代の秦の人で、韓愈は次の時代の逸材を見出す人の不在を嘆いています。

 韓愈自身は、進士科・博士弘詞科にそれぞれ三度失敗し、三度の左遷を繰り返し地方ぐらしをしています。空海や最澄が入唐したころは最初の左遷で連州陽山(広東省)にいました。硬骨の官であり「有愛在民」を旨として生きた韓愈がそんなようすでしたから、優れた留学僧として唐に渡り、20年を2年で帰国した空海にとって、長安は長居するところではなかったのでしょう。

  • 2016年11月09日(水)
  • 鉱物

「十年一剣」(じゅうねんいっけん)

「十年一剣を磨く」というのは唐の賈島の詩「剣客」の首句です。こつこつと労苦して十年をかけて磨きあげた一剣。その「霜のような刃」をもつ名剣を、「未だかつて試みず」、試みる相手も機会もなかったと剣客はいい、モノの「品格」が理解されず、ヒトの「品性」が衰えていく時代をみています。賈島は三十年も都にいて科挙に何度も失敗し、ひとたびは出家しています。この「剣客」は僧籍にあったときの慷慨の詩です。賈島は「一字之師」(2016727)で、韓愈に自詩の「推敲」をしてもらった故事で登場しています。
 同じ十年でも「十年窓下」や「十載寒窓」というのは、長いあいだ人に知られず学問にはげむこと。無名でひたすら勉学に努めて、「科挙」に合格すると一挙に名が天下に知れ渡ることになります。冬の窓辺で降り積もる雪を眺めては年月をかさねて、髪が白くなるのを見た人、志を得ずして故郷へ帰った(白首空帰)人も数知れません。
 現代中国では、長年かけた製品の優秀さを訴える広告に多く用いられています。
 
 

「臨池学書」 (りんちがくしょ)

 書聖といわれる王羲之の有名な「蘭亭序」(行書)は、唐の太宗がみずからの昭陵に副葬させたので原蹟は失われましたが、臨摸された歴代の逸品のうち、わが国の博物館・美術館・個人が秘蔵する作品も数多く残されています。
 王羲之が草書の目標として崇拝したのが後漢時代の張芝です。張芝は勤めて池に臨んで書の力を養い池水が墨で真っ黒になったため、「臨池学書、池水尽墨」がいわれました(晋衞恒『四体書勢』から)。張芝は家中の衣帛すべてに字を書き、それを洗って再び使ったといいます。どうやら池で洗ったのは筆硯ばかりではなかったようです。羲之もそれにならったことから「臨池学書」がいわれ、その古跡は「墨池」と呼ばれたのですが、いま紹興市の「蘭亭」には池は「鵝池」だけ。しかし羲之が臨池して刻苦して書を学び、筆硯を洗った姿を後人が慕って、「臨池」というと書論や書学など書に関する学問を指すようになっています。
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堀内正範氏

日本丈風の会 代表
Web月刊「丈風」編集人

当社が永く校正で携わった、『知恵蔵』(朝日新聞社)の元編集長、朝日新聞社社友。
現在は「日本長寿社会」を推進する「日本丈風の会」を主宰し、アクティブ・シニアを応援している。 中国研究を基にした四字熟語への造詣も深く、時事を切り口に、新聞や書籍において解説を行なっている。
日本丈風の会ホームページにて、「現代シニア用語事典」も掲載。

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