- 2017年09月27日(水)
- くらし・家庭
「比比皆是」(ひひかいぜ)
「比比皆是」は『紅楼夢「二回」』」では「上は朝廷より下は草野に至るまで比比皆是」と二者の比較ですが、いまはどこにでも見られる「触目皆是」の意味で用いられています。昨年の暮れに翻訳刊行された村上春樹の『職業としての小説家(我的職業是小説家)』に「わたしは比比皆是の普通人」と記されていることに関心が持たれたようです。
あるとき荘子は恵子(恵施)と濠水の橋の上から魚(ハヤ)を見ながらこんな議論をします。「魚がゆったりと泳いでいるが、あれは魚の楽しみだね」。すると恵子は「あなたは魚でないのだから魚の楽しみがわかるわけがない」と議論をしかけます。そこで荘子は「あなたはわたしではない。どうして知る知らないをいえるのかね」。恵子はいいます「わたしはあなたでない。だからあなたを知らない。あなたは魚でない。だから魚の楽しみを知らないのはいうまでもない」。荘子がいいます「話をもとにもどそう。あなたはわたしが魚の楽しみがわかると知ったうえで問いかけたではないか」
「濠梁観魚」あるいは「濠梁之弁」(秋水篇)として、二人の立場の違いを伝える話として記されています。恵施は名家(論理学派)を代表する人物で、「就事論事」の立場で事実をもとに理性的に思考をします。それに対して荘子は、自己の感知した情をもって他を理解し自己の哀楽を転移することができるとします。魚もまた楽しいのです。
「虚舟」(『荘子「山木篇」』)は人の乗っていない舟で、「飄瓦」(『荘子「達生篇」』)は風に飛ばされた瓦のこと。人がつくったものであっても人が乗っていない空舟が接触して航路をふさいだりしても舟を怒ったり罵ったりしてもしかたがないし、風で飛ばされて落ちてきた瓦でけがをしてもそれで瓦を恨んだりしてもしかたがありません。
たしかに人為なのだけれども人為によらないなりゆきであることを、のちに合わせて「虚舟飄瓦」(宋・祖慶『拈八方珠玉集』や明・湯顕祖『牡丹亭還魂記』など)として用いています。世の中に目立とうとせず、人為を廃しておのれをむなしくして事に当たって世に認められることにいうようになります。その後はなんという理由もなく加害を受けた人や後追いする手がかりのない事物をいい、さらには実用価値がないものの意味で用いられるようになりました。こうなってしまうと、もはや荘子が託した人為にして人為にあらざるものの持つ意味合いとは遠く、本来持っていたニュアンスは消し去られてしまっています。